【前半】もがきながらも見出した、自分たちの価値/2月26日トークイベント
「働きながら音楽活動をする」第7回目の今回は、LITE/行政書士の武田氏が開催する「ミュージシャンによるミュージシャンのためのお金セミナー」とのコラボ企画。
「お金のセミナー」では、現実的なバンドの経理や、補助金の使い方などを武田氏と税理士の宮原氏を交えモデルケースをあげて解説。そしてセミナー恒例の宮原税理士による確定申告のやり方講座も実施しました。
「働きながら音楽活動をする」では、スペシャルゲストにmouse on the keys川﨑昭氏をお迎えし、バンドの立ち上げから、これまで歩んできた音楽活動の背景や、活動に対する想いや考えを伺いました。
本レポートでは、前半・後半に分けてmouse on the keys川﨑氏のトークライブの様子をお届けします。
※話し手
川﨑昭(mouse on the keys)
武田信幸(LITE/行政書士)
※モデレーター
鈴木 哲也 (oaqk/Penguin market records副代表/ヤフー株式会社)
※イベント
2019年2月26日 新代田FEVERにて開催
初ライブは5分で終わった
川﨑:よろしくお願いします、川﨑です。今日はどんな方が参加してますか?
鈴木:働きながらバンドやる方もいるし、ソロ活動の方もいますし、多様な参加者が集まっています。
川﨑:今日の話を参考にしてもらえればと思います。
鈴木:まず最初に、会場の皆さんに対して聞きたいことありますか?
川﨑:そうですね、頭が真っ白になったことある人いたら手を上げてください。
鈴木:後半の文脈に続くんですけどね。
川﨑:いきなり意味わからないかもしれませんね(笑)後で例えを説明すると分かると思います。みんな誰しもあることですね。
鈴木:音楽だけじゃないですもんね。
武田:後半に同じ質問したら、みんな手を上げるかもしれないですしね。
鈴木:まずは、mouse on the keysを知るために、年代ごとの活動や、バンドを続けるうえでのマインドについてのお話を伺えればと思います。活動自体は、2006年から二人でスタートしたんですよね。初ライブはどこでおこなったんですか?
川﨑:初ライブは、2006年10月28日、下北沢ERAですね。対バンが、BANDWAGON、BALLOONS、The Life and Times、naht。僕らのライブ、5分で終わりました。
鈴木:ほんとですか!?
川﨑:5分のうち2分映像流して一曲演奏しただけ。killieの伊藤君がそのとき見てくれてて、何年か前に、あの時がmouse on the keys史上一番いいライブだったと言ってた。5分でしたけどね。
鈴木:2007年、ファーストミニアルバムリリース。三人体制になったのはその後ですよね。
川﨑:そうです。これは、toeが主催するMachupicchu INDUSTRIASからリリースですね。
鈴木:今は三人体制でドラム・ピアノ・キーボードですけど、二人のときは川﨑さんはどうやっていたんですか?
川﨑:ドラケンていう、鍵盤とドラムを同時に演奏する概念を考えたんですよ(笑)ドラケンで世界を制覇しようと思って。でも、やっていったら、曲が難しすぎて辞めました。
鈴木:僕ちょうどドラケン時代の川﨑さんを見ていて、これすごい難しそうだなと思ってました。
川﨑:難しいです。最近、マルチ・インストゥルメンタリスト増えてますけど、僕がやっていたのが2006年ぐらいだから、続けていたらそのジャンルで巨匠になれてたかもしれない(笑)
バイトしながらバンドをする、という「もがき」
鈴木:そこからファーストアルバムをリリース。アルバムを作りながら、自分のバンドにどんな印象を持っていましたか?
川﨑:そうですね、このmouse on the keysをやる前に nine days wonderっていうバンドに所属して8年ぐらいやっていました。
nine days wonderの活動を生活の中心にしていたんですけど、家庭の事情とか、色々な理由があって、ちょっとこのまま続けるのはムリだなというので抜けました。で、音楽やるんだったら自分のためだけにやろう、と結成したのがmouse on the keysなんですね。抜けたのが2005年ぐらいで、31歳ですかね。
鈴木:僕もnine days wonderのライブは見に行っていて、そこから出てきた川﨑さんが結成したマウスを最初に知った時の衝撃はデカかったですね。
川﨑:nine days wonderの元メンバーがバンド結成したといったら、その周辺の人が見るじゃないですか。だから、ほんとにパンチを与えようと思って。そんな感じでバンドを始めていって、やっぱり「あっ、生きてるな」っていう実感があったわけです。
で、当時何やって生活していたかというと、警備員とか解体現場の作業員などやってました。ビルの解体でハツリやったり。
武田:僕、川﨑さんとお会いしたこと無いときに、ライブの打ち上げやってたらお店に現場作業員の人が入って来たんですよ。それが川﨑さんでした。
川﨑:mouse on the keysってスーツ着てる印象ありますけど、元は解体現場作業員ですからね。
鈴木:解体作業の仕事は何年ぐらいやっていたんですか?
川﨑:分からないですね、解体作業の仕事以外も色々やってましたからね。ジェラート屋の店長もやってました。
鈴木:いいですね!
川﨑:あるじゃないですか。俳優さんで「若いころはいろんな仕事やりました」みたいな。まさにそれで。
ジェラート屋に関しては、僕はバンドがメインで、そこを優先して良いという条件で店長になったんです。が、オーナーは「バンドじゃ食えないから、うちでしっかり店長やったら?」って言うんですよ。だから「嫌です」と言って辞めましたね。
要はそういう、仕事しならバンドやる、というところで、もがきまくってましたね。
武田:ずっと仕事をやりながら?
川﨑:そうですね。この何年かでようやくですよ、音楽周辺だけで回るようになってきたのは。
真っ白になったツアー
鈴木:活動の一つの起点で、海外でのライブ、海外でのツアーもあると思いますがそれが2010年から2011年ですね。
川﨑:そうですね、2009年以降からテレビCMの仕事もけっこう来て、海外からもオファーが来るようになったんです。テレビCMの依頼のときは、MySpaceにオファーが来たんですよ。イタズラだと思って放置してたら、「誰に連絡していいかわからないからMySpaceに連絡しました。お返事ください!」って。ドイツのレーベルでのライセンスリリースの誘いが来た時も、インチキだと思って放置してたんですが、実際はすごく良いレーベルでした。
それぐらい急成長していった時期だったし、「僕らがやってることに価値があるんだ」って感じるようになりました。
鈴木:セカンドミニアルバムとツアーですね。あと、ブラジルでの単発の公演。
川﨑:そうですね、すごい良かったですね。この時はですね、海外でライブやるのに日本の助成金は使っていないんですけど、ブラジルのほうに助成金がありました。ギャラと、交通費と宿泊代と現地のレンタル機材代を全部出してくれて。
武田:実際、海外でこういうのなかなか無いですよね。
鈴木:それで、セカンドフルアルバム、それからミニアルバム。僕が東北で関わっていたPARK ROCK ISHINOMAKIというフェスに出てもらったのが2015年でした。2017、武田さんのLITEと東海岸ツアーに行ったり、一緒にスプリット出したりしましたよね。
川﨑:ニューヨークで、日本の2バンドのライブで600人ぐらいお客さん来たんですね。で、ほぼほぼソールドアウト。現地の人に言われたんですよ、「お前らのライブ日本人いねえな、すげーよ」って。光栄ですよね。日本のバンド2組で行って、現地のアメリカ人が600人近く来てくれるってちょっと革命的でしたよね。
インディペンデントでやっているバンドでも、インターネットがあることで、バンドの情報がよりダイレクトに音楽好きに伝わる、ということがツアーの中で分かりました。
武田:これは、真っ白になったツアーですね。
川﨑:いやもう超真っ白ですよ。ニューヨークでは気合い入りまくりで、ダイブしまくりましたよ。
鈴木:ではここまでが、「mouse on the keysを知っていただく」ということで、この後はテーマごとにトークができればと思っています。
自意識の怪しさに気づいた、暗黒時代
川﨑:この中から言うと、年代の流れの部分も話したほうがいいかなと思います。さっきの話にも通じるので。
20代は、mouse on the keysの前、 nine days wonderにいたんですよね。とにかく解体作業の仕事やらジェラート屋の店長やらをやって、音楽が大好きで、表現というのを自分の生きがいとしてやってきた。
その前の話すると、大学を卒業して、会社員になったんですけど、僕がいたところはすごく忙しくて、仕事しながらのバンド活動がなかなかできなかったんです。
その頃、アメリカからAssuckというバンドが来日して、対バンの機会があると言われて。単なる対バンなんだけど、当時は「これはチャンスだ!」と思って、これで会社辞めてもいいんじゃないか?と思ったんです。23歳ぐらいの頃。アホですよね。
それがトリガーになって。
で、会社の部長に、「音楽のほうに人生を懸けたいので、辞めさせてください」って伝えて辞めて(笑)
対バンしたのは吉祥寺のライブハウス。でも辞めてAssuckと対バンしたからってメシ食えるわけじゃないし。当時はそれでもよかったと思ってて、それぐらい自分の考え方って甘かったんですけど。
それから、あらゆる仕事をしながらもバンド活動を続けていく、っていうことは、音楽に集中することに向かうために必要な時期だったんですよね。僕の20代は、暗黒時代と呼んでます。
鈴木:どんな感じの暗黒だったんですか?
川﨑:要するに、会社辞めて音楽でやるぞとなったはいいけど、さてどうやってやっていけば良いのかが全く分からなかったんですよ。その頃、 nine days wonderのメンバーと知り合いライブをやるようになったんですけど、音楽性がハードコアやポストハードコアとかで、これじゃメシ食えないよな、というのはありましたよね。自分は行けるかなとは思ってたんですけど。
鈴木:当時、川﨑さんの見習うべき先輩みたいな方々はどんな感じだったんですか?
川﨑:僕ら、超生意気で、先輩バンドをくそみそに言ったり、まったくつるまなかった。で、そんなとき出会って「スタジオでライブやろう」みたいな動きが起こって、そこで一緒にやったのがenvyとかゼアイズ(THERE IS A LIGHT THAT NEVER GOES OUT)
とかKularaとかですね。会社を辞めて、そういうバンドたちと出会うようになって活動も活発になりました。
川﨑:自分としては、正直なところ20代のころはテクノやりたかったんです。Warpとか好きで。Aphex TwinとかSquarepusherとかタイムリーに直撃してやべーなとなってて。「俺打ち込みでヤバいの作るぜ!」みたいな感じだったんですけど、打ち込み方が分からなかったんです(笑)
激情ハードコアとかエモの音楽性は、何となくわかるけど、上手くない人も多かったし「既存バンドの劣化版じゃねーか」みたいな印象が最初あったんですよ。結局それは自分の知識が足りなかっただけなんですけど。
自分が会社を辞め、音楽のモチベーションが徐々に下がりスランプになってしまったんですね。自分の存在意義ってドラム叩く以外無かったんで、nine days wonderの中でとにかくやっていこうと。結成当初、そこでのモチベーションは何かというと、ストレス発散。ライブにお客さん来るじゃないですか。殺そうと思って睨みながら叩く。そうすると、あまりにも圧が強いからバスドラがズルズル動いちゃう(笑)
で、ライブ終わった後、「ライブ最高でした、川﨑さんのドラムやばいっすね」ってお客さんに言われると「よくねーよ」って言ってました。ほんと嫌なやつです(笑)
鈴木:尖ってますねー!(笑)
川﨑:ホント病んでましたね。
武田:今は違いますよね?
川﨑:今は違う。今は違いますよ(笑)
当時はマインドも暗黒。でも、そんな中自分のスタイルができてきたんですよ。自分で「よくねーよ」って言いながらも「いいねいいね」って言ってもらえる声が増えてきた。「第三者が見た自分の魅力ってこれなんだ」ということに気づいてきた。自分でやりたいのはこれだ、というのより、「nine days wonderで叩いた時のほうが川﨑君らしいね」「やばいね」と言われるようになったのが衝撃で。これは一体どういうことなんだろうと。
30代目前になって、だんだん音楽的モチベーションも上がってきて、自分のスタイルもできて、「このドラムのスタイルを生かしつつ、自分の好きなピアノや現代音楽を混ぜたようなハードコアを作れればいいな」と考えるようになった。そこから、クラシックピアノを習いに行ったり、国立音大の図書館で、ドビュッシーとかラヴェルの楽譜を借りてコピーして、ロジックで打ち込んで、そこにビートを足して練習して、というのをしていたのが、mouse on the keysの始まり。
暗黒時代、自意識が怪しいというのに気付いた。人との関係や反応によって自分の良さが認識出来たっていうのが革命的でしたね。mouse on the keysになってCMの仕事や海外からのオファーがくるようになって、自分発信のものが評価されるんだとわかって来たのが30代、っていう流れです。
※mouse on the keys川﨑氏のトーク前半はここまで。後半に続きます。